【昨日のヘェ~】ぶりっ子。京都の桜。都会と田舎。世の中の中と外。
(はじめての方はこの記事から)
わたし大江戸は東京生まれ。だから、東京のことは広く知っていて当たり前と思われてしまうことへの見栄なのか、たまに「知ったかぶり」をしてしまう。
先日も、結婚式で来た親族一同、
東京駅八重洲口から乗ったタクシーのお客さんに、
「、、、愛宕神社まで。、、、上まで上がってください。えっ?知らないの? 東京の人? まだまだだねー(^-^)。、、、愛宕神社は徳川三代将軍家光の時に、、、(うんちく)、、、東京23区の中で一番高い自然の山だと書いてあるよ。人工の山なら一番高いのは新宿の、、、」
と言われたが、まるで知らなかった。
愛宕神社は、港区の虎ノ門ヒルズのそばの都心の神社だが、こうして入り口まで来てみると、確かに小高い山の上だった。
「いやー、初めて聞きました。そうなんですかー、まったく知りませんでしたー(^-^)」
と、(覚えきれるかー、、、)との思いは胸の内にしまい爽やかに答えたが、、、
覚えきれないし、東京生まれはハナから余計なことには無関心。
そこいくと、小さな自治体育ちの子供は違う。
、、、思い出したのは、
その昔、わたし大江戸は北海道一周を自転車で旅行したことがあるのだが、ある小さな町でテントを張って長居をした。
そこの中学生たちと仲良くなったら、いろいろと自分たちの町のこと話してくれた。
「、、、あそこの石屋のおやじは自民党でさ、土産物屋のあの兄ちゃんは20年前に○○から来た人で、社会党(当時の有力野党)だべぇって、ウチのオヤジが農協の仲間の人と話してたんだー、、、」
など、社会の縮図をそれなりにリアルに自分の五感で把握していた。
東京の人間は身近な社会の全体像を知らずに大人の年齢になる人が多い。
子供というのは自分の身の周りの小さな社会からだんだんと大きく全体を理解していく。その意味では小さな町もいいかもしれない。
さて、ちょっと話は変わるが、
タクシーには「ぶりっコ」も乗る。
知ったかぶる以外にも、通ぶる、悪ぶる、インテリぶる、大物ぶる、善い人ぶる、金持ちぶる、エリートぶる、貧乏ぶる、可愛子ぶる、、、様々。
人はなぜ「ぶりっコ」をするのか?、と考えてみた。、、、タクシーは空車だとこんなどうでもいい雑念も繰り返し浮かぶ。
人がぶりっ子をするのは、、、「自信がない」からだと思う。自分もそうだから。まだ知ったかぶりもするし。
タクシードライバーは目的地までのルートなど、知ったかぶりっコをするとロクなことにならない。人間、知らないことは素直に聞けばいいのだろう。
先日は、この季節にふさわしいタクシー客も乗ってきて、
「今から京都に桜を見に行くから東京駅までお願いね(^-^)」
とのことで、
道すがら、京都の桜の見所を教わった、、、このお客さんは通人だった。
桜見物など知ったかぶりができないジャンルなので、素直に聞いてメモったので、シェアしとこう!
だいごじ。こういう字を書くのだろうか。
「しだれ桜が 圧巻ですよ」とのこと。
境内ではなく脇道のしだれ桜がいい。そんなに広い場所ではないけれど、素晴らしく風情があるらしい。
いろんな種類の桜があって、本当に見事だとのこと。
、、、まだ続く。
ここの桜は「紅しだれ」。濃いピンク色の美しいしだれ桜が咲くらしい。平安神社の中ではなく神社の左側らしい。
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嵯峨野地区
つまりは嵐山のあたり。やはりいい、と。
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祇園の裏
白川と呼ばれる川の並木の桜が見事で、なんとも京都らしい風情があるとのことだった。
素直に聞けば人は親切に教えてくれる、、、いつか行くときの備忘録になるし。これでいいのだ。
話は変わって、
都会と田舎についても考えが少しまとまってきた。
若い頃、あるオジサンが 「僕は百姓が嫌いなんだ」と言ったが、若いわたし大江戸にその意味は理解できなかった。だが今は分かる気がする。
、、、50代は分別盛り?
つまり、「 みんなと同じじゃなきゃいけない」という風土、慣習に縛られ、互いに監視し合うような群衆を指して「田舎」「百姓がきらい」 と言ったのだと思う。
その意味で「百姓」はキツイ縛りにも耐えられる。SMのMである。その縛りに耐えられない者が江戸時代なら江戸に出て町人になる。
つまり、都会人になる。それは江戸時代も今も同じだろう。
いろんな考え方、多様な価値観を認め合い、尊重できるのがわたし大江戸の定義する都会人である 。
その意味で、東京に住んでいても都会人になれなかった「百姓」もたくさんいる。それが多数派なのが今の日本国。
都会は「吹き溜まり」という人もいるし、意見が違うから、あーじゃないこうじゃないと話がひとつにまとまることもない。
だがその方が健全。モノ言える社会だから。
逆に、皆が同じ考え方、皆が同じ指向性を持っていて、あるいは、持たなければならない集まりを組織とか組と言ったり、○○派とか○○流と言ったり、宗教ともサークルとも言ったり、共同体とか言ったり、クラブとも言ったり 、、、とにかく組織力で競争する人間がいるんだからそうなるしかない。
伝統、田舎、封建を捨てて、都会に出て来ても、そこでも寂しくなって群れる。
家庭や学校や会社で。
そして、都会人になれないハンパ者は都会を外れて、「外=out」に同じ志向性で集まる者も出てくるが、人は全員違うから、息苦しさは田舎と変わらない。
社会の「中」と「外」。
それとまた、昔観た映画のことも思い出した。
この「ザ・ビーチ」は、この世には「アウト=外側」など無い。だからドロップアウトもない。それが世の中、という青春サブカル映画にありがちな結末の映画である。
1960年代のビート族の小説「オン・ザ・ロード(路上)」もそんな結末だったっけ。
わたし大江戸は、上記の百姓や田舎はダメだが、宗教もコミューンも部族(トライブ)も性に合わない。
わたし大江戸は江戸時代なら町人の職人タイプ。
欧米の先進国の人たちは日本より多くの人が「人間は皆違う」と当たり前に知っているみたいだ。、、、とうの昔に個人主義。
「天は人の上に人をつくらず」
である。
欧米人から見たら、日本の封建時代の名残りである「目上」「目下」も、相撲協会が懸命に守りたい古いだけでブラックな伝統も、なんのことか「まったく理解できんコちゃん」であろう。
今の世の中で「伝統は守るべき善いもの」という人が多いのも、組織に君臨する者の刷り込みに違いない。
なぜならその伝統であるはずの江戸時代の江戸っ子たちこそは町人になり、封建に逆らいまくった人たちなのだから。
東京でタクシーに乗ると、世の中は実に様々な人がいて、都会ではあらゆる仕事、あらゆるバックボーン、あらゆる考えの人が一緒に暮らしているのが分かる。
そして群れないタイプのタクシードライバーたちは、都会の人らしく。独り、運転席から大都会を醒めた目で見たりしている。、、、人情は重んじるが。
おっとっと、、、ハードボイルド調にカッコ良く書きすぎだ。文章に溺れんじゃないよって、、、だいいち、桜の話からだいぶ横道に逸れてしまったわぃ。
京都に桜を見に行くお客さんに話を聞いたりしてタクシードライバーはけっこう楽しい。
自分は自分。
他人は自分じゃない。
皆が互いの違いを楽しんで、自分とは違う他人に、自分らしくサービスをし合えば、自分も世の中も豊かになるのだろう。
自分とは考え方は違うが、まぁ、一緒に協力して目の前のこと、良くしましょうよ、と人や社会と接する都会のさばけた人が、わたし大江戸は好き、という話でした。
今回の「大江戸たくどら日記」、、、完。
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♫ 勝手にエンディング曲 m(__)m
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by 大江戸巧氏(おおえどたくし)
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